市長コラム(平成26年分)

ページ番号1002130  更新日 平成29年3月9日

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年の始めのお饅頭(Link 2014年11月号掲載)

写真:紅白饅頭

その昔、一月一日は、いなべの小学校の登校日でした。戦前は講堂で教育勅語を拝聴し、戦後は唱歌「一月一日」年の始めの例ためしとて、終わりなき世のめでたさを・・・を合唱し、紅白のお饅頭をいただいて帰るのが恒例でした。この行事は昭和40年頃まで続き、私もお正月に学校で紅白のお饅頭をいただいたのを記憶しています。祝い事には紅白のお饅頭。名付け、婚礼には付き物でした。

また、葬儀の席もお饅頭。昔は甘い物が貴重で普段なかなか食べられませんでした。葬式饅頭には故人の所有していた財物を残された者に喜んでもらえる形にして返す(布施)という意味が込められているようです。

私は甘党なので和菓子は大好きです。我が家で和菓子をゆっくりと味わう、これが私の至福の時間です。

引っ込み思案なネコギギさん(Link 2014年10月号掲載)

清流のシンボル、ネコギギ。かつては三重県の多くの河川で生息が確認された魚ですが、最近の調査では4水系に限られ、員弁川水系が貴重な生息域に残っていることを誇りに思います。

絶滅危惧種とは乱獲や環境の変化に順応できず滅び去る惧れのある生物のことですが、周りの空気が読めない頑な人を揶揄する言葉ともなっています。ネコギギは愛らしい少女のようにも見えて、なかなかの頑固親父なのかもしれません。

ネコギギの性格を紹介しますと、警戒心が強く、昼間は川の淵の岩陰に隠れ、夜に動き出し水生昆虫を餌とします。泳ぎは苦手で急流や堰を越えることはできず、冒険旅行はしません。繁殖期にオスは隠れ家の周囲に縄張りを作り、そこを訪れたメスが産卵します。行動範囲は狭く、数十mで遺伝的な組成に差異が見られるほどです。

この引っ込み思案なネコギギさんの子孫を増やそうと懸命の努力が続けられています。再び、ネコギギさんが安心して暮せる水辺が蘇ることを祈っています。

阿下喜を熱く語る会(Link 2014年9月号掲載)

平成25年の阿下喜マルシェ・クラフト市の様子(絵)

ここは阿下喜、坂の街、丘の街、昭和の街。
ここは阿下喜、神社の街、神輿の街、おひなさんの街。
ここは阿下喜、病院の街、銀行の街、終着駅の街。

地元の人が抱く、阿下喜のイメージです。

しかし、貴重な遺産は朽ちかけていました。そこで、昨年から阿下喜の活性化を旗印に、地元自治会、商工会が中心となり、街づくりプロデューサー石黒靖敏氏の指導の下、「阿下喜を熱く語る会」が始まりました。

そして、昨年10月、「マルシェ・クラフト市」が桐林館の周辺で催され、2万人の大盛況。かつての学び舎が再び脚光を浴び、阿下喜を蘇らせようとしています。そして、今年、国の登録有形文化財への登録。阿下喜の更なる飛躍を期待しています。

お茶は戦前の輸出品(Link 2014年8月号掲載)

写真4
輸出を証する鑑定書

いなべ市の最大の輸出品は自動車。しかし、戦前はお茶も生糸と共に輸出品でした。この地にお茶の栽培が始まったのは江戸時代の初め、それから、戦前までの農業は機械化されておらず、お茶の葉も手で摘み、製茶も手もみ。和紙を幾重にも張った木箱の上に蒸した茶葉を入れ、下から炭火で熱し、約2時間、手でもみながら形を整え、茶葉が針状になるまでに仕上げたようです。

私の母の実家はその昔、製茶業を営み、静岡から来た職人が褌ふんどし一つで炉の前に立ち、手もみをする姿を幼心に覚えていると話してくれました。また、四日市港より米国に輸出もされており、明治19年8月25日付けで米国向けに輸出された鑑定書も残されています。再び、外貨を稼ぐ産業に成長できることを願っています。

我が家の子育て支援(Link 2014年7月号掲載)

写真:保育園児の栗拾いの様子

我が家の庭には栗の木が5本あり、例年、近くの保育園児が栗拾いに来てくれます。栗のトゲは鋭く大人でもよくケガをします。最初はトゲが刺さるのを心配し、あらかじめ栗の実をイガからはがし、栗の実だけを再び栗の木の下にまいてもらいました。しかし、心配無用。子ども達は「足でむくんやで」と両足で皮をむき、上手に拾っていきます。

栗は3個セット「栗の3兄弟や!」と大はしゃぎ。初めてイガグリを見た園児は「ライオンのどんぐり」と表現し、お母さんも先生も、その表現力に大感激。私も妻も子ども達の喜ぶ姿に感動をいただいています。この秋も多くの園児に来てもらえるように手入れしておきます。

ごみもみんなの助け合い(Link 2014年6月号掲載)

写真:ごみの分別

月に2度のリサイクル。「ビンのアルミキャップは燃えないごみの金物類?それとも、アルミ缶のカゴに入れたらいいの?」それはアルミ缶のカゴ。「お煎餅のブリキ箱、これも燃えないごみの金物類?それとも、スチール缶のカゴに入れたらいいの?」それはスチール缶のカゴ。・・・自治会のリサイクル当番の方が親切に教えてくれるから安心です。

私達が生活すると必ず出てくるのがごみです。みんなが気持ちよく暮らすためには、適切なごみの処理は欠かせません。いなべ市では各自治会にごみの集積所とリサイクル拠点を設け、自治会で管理をお願いしています。自治会に入っていない方のごみは、自治会の了承を得て自治会の集積所に出されているか、事業系のごみと同様に独自に処理施設に運ばれています。ごみも“みんなの助け合い”、適切に管理していただいている自治会の皆様に心より感謝申し上げます。

私と北勢線、三岐線(Link 2014年4月号掲載)

写真:北勢線の電車

私は高校の通学に北勢線を利用しました。旧北大社駅から馬道駅まで、朝は半分眠りながら、夕方は友と話しながら楽しい時を過ごしました。しかし、それも数ヶ月。自転車で高校まで通うことにしたため、つかの間の北勢線でした。当時は自動ドアではなく、都会から来た人が乗り過ごしそうになったこともありました。

今は出張で三岐鉄道を利用しています。津の出張はもちろん、四日市へも電車です。懐かしい人と偶然会えるのも電車の魅力です。読書してよし、眠ってよし、車窓から移り行く風景を楽しむもよし、素晴らしい乗り物と重宝しています。

先日、出張からの帰りが遅くなり、終電車を心配しましたが、間に合い安堵しました。電車の有り難さを切実に感じるのは電車がなくなったときです。
朝早くから、夜遅くまで、年中、休むことなく走り続ける北勢線と三岐線。支え続けている皆さんに感謝すると共に、二度と廃線の議論が起きないように努めたいと思います。

成人おめでとうございます(Link 2014年3月号掲載)

写真:柴田章吾さん

大安町平塚出身のプロ野球選手、柴田章吾さん(24)をご存知でしょうか?ベーチェット病という難病と闘いながら、読売巨人軍の一軍のマウンドを目指して頑張っています。

彼は小学生の頃から野球の天才と言われ、6年生の時、ボーイズリーグの「四日市トップエース」で全国制覇をしました。中学3年生になって日本代表に選ばれた直後に発病し、小腸や大腸に無数の潰瘍ができ40度近い高熱を発して入院。野球をあきらめかけていた頃、愛工大名電高校の監督から「ゆっくり治療して、3年の夏に投げてくれればよい」と誘われ、実際に3年生の夏、甲子園のマウンドに立つことができました。そして、明治大学を経て、読売巨人軍の育成選手としてドラフト会議で指名され、今も難病の治療を続けながら野球と闘っています。

「何度も野球を止めようと思った」という柴田選手。「支えてくれた人たちへの恩返しのため、そして、同じ病気の人たちを勇気づけるため」と懸命に頑張っています。彼は郷土の誇りであると共に、難病と闘っている多くの人の希望の星でもあります。

全身全霊を捧げて打ち込める何かと出会えることは素晴らしいことだと思います。それが、人の役に立っていると信じられるとき、より大きな力が発揮できるような気がします。皆さんの前途を祝し、お祝いの言葉とします。

デンソー大安 駅伝で日本一(Link 2014年2月号掲載)

写真:浅羽選手
笑顔でゴールする浅羽選手

12月15日、全日本実業団女子駅伝で、デンソー大安製作所の女子陸上長距離部が大会新記録で優勝。初の日本一に輝きました。1区では昨年6区の区間新記録を出した石橋麻衣選手が4位と快調なスタート。2区の小泉直子選手が区間賞の走りでトップに立つと、強豪ぞろいの3区を水口侑子選手がトップと4秒差の2位でタスキをつなぎました。次の4区はケニア出身のスーサン・ワイリム選手が区間新の走りを見せ、再びトップに。5区は主将の高島由香選手が力強い走りで首位を守り、最後にアンカーの浅羽加代選手が笑顔でゴールテープを切りました。6人全員が区間4位以上。若松誠監督は「全員が主役と思い、自分らしい走りをしてくれた」と優勝の喜びを語ってくれました。


写真:市長と部長、監督、選手のみなさん
市長に優勝報告する若松監督(左)、選手の皆さん、堀部長(右)

同社は東日本大震災で仙台や石巻を支援していることから、仮設住宅の人々も応援に繰り出し、沿道はチームカラーの真っ赤に染まったそうです。女子陸上部の部長を務める堀誠大安製作所長は、「デンソーの社員だけではなく、いなべ市や被災地の皆さんの応援が優勝に導いた」と述べておられました。

我が郷土から日本一のチームが生まれたことを市民の皆さんと共に喜ぼうと思います。

佐六さんの名馬(Link 2014年1月号掲載)

写真:一色佐六さんが描いた馬の絵
佐六さんは馬の絵を描くのも天才的でこの絵は
ご家族から寄贈いただき、大安町の旧町長室を
飾っています。

平成32年に東京オリンピック、平成33年には三重国体が予定されていますが、人馬が一体となって、次から次へと障害を飛び越え、華麗に舞う馬術競技。その馬術競技で調教の天才と言われ、昭和39年の東京オリンピックの日本チームの教官、そして昭和50年の三重国体で優勝に導いたのが地元鍋坂の一色佐六さん(明治35年~昭和52年)。

馬が生活に欠かせなかった時代、馬と共に暮らし、軍隊でも部隊長として馬の調教、管理で大活躍されました。馬はもともと臆病で警戒心の強い動物です。その馬の能力を引き出すには、馬とふれあい、馬の心を汲み、馬を励まし、できた時は一緒に喜び、馬に自信をつけさせながら、少しずつ難しいものに挑戦させる。「たくさん教えれば、そのうちに覚わるというものではなく、馬の記憶に残る教え方をしないといけない。」と佐六さんはよく話されたようです。

このことは人と人とのふれあい、教育にも通ずるものがあるように思えます。今年は午年。佐六さんが育てた名馬のように、一人ひとりが持てる力を十分に発揮し、大きく飛躍できる年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

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